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子宮内膜症→チョコレート嚢胞(ここまで自覚なし)→明細胞腺がん発覚。今は経過観察中。ふだんは漫画やアニメの話題など。

19年間の思い出

 

先週、長女が19歳の誕生日を迎えた。

彼女は現在、保育士(幼稚園教諭の免許もとれる)の資格を取るべく、

毎日片道1時間半かけて学校へ通っている。

 

生まれた時は、こういう未来になっているとは思わなかった。

 

出産前まではずっと逆子がなおらず、検診の度にエコーで診ては

「治らないね~。残念でした~!」という医師の暴言を経て

帝王切開の手術日前日早朝、突然大量の破水でその日を迎えたのだった。

 

が。

 

産院についてみると、麻酔医がいないのですぐに手術ができないという。

だが、破水していてもすぐに分娩とはならないので大丈夫だと医師が

言ったので、私はずっと処置室の片隅で、点滴と分娩監視装置を

つけられて手術ができる状態になるまで待たされた。

 

数時間がたち、やっと看護師が声をかけてきたので

ついに手術になるのか?と思いきや、緊急帝王切開が入ったので、

もう少し待ってくださいね!という信じられない内容だった。

いつから麻酔医がいたんだろう?

 

その後ようやく娘が生まれたわけだが、全身麻酔なので産声は聞いていないし、

しかも体重は2.500g未満、片足のつま先が足の甲側にくっついていたので

NICUがある病院へまさかの救急搬送されていて、麻酔が完全に覚めきっていない

頭でぼんやりと「いないんだ」と思ったことを覚えている。

窓ガラスの向こうは夕暮れの色で、産院の外から「おかあさーん」という

声が聞こえてきたのだった。

 

ちなみにこの産院(個人病院)は現在、お産は取り扱っていないそうだ。

事故が多かったとかで、このブログでも入院中にお見舞いに来てくれた

友人も同じ産院で出産して、いい印象でなかったことを書いている。

 

今思うと、破水の量を医療側は気にしていなかったように思える。

のちに二女を出産した時も破水から始まったのだが、

二女の場合はつうーっと流れる水の量が少なかった。

対して長女の時は、お手洗いへ行くとどぼどぼと音がしたくらい多く、

水がいっぱいに入った瓶を横にしたような感じで流れ出たのである。

 

長女の手術が迫ってきたころ、おなかの中でとんとん、と小さなかたまりが

おなかの内側を叩いていたのが忘れられない。

あまりに手術になるのが遅くてやけっぱちになっていた私に長女が語りかけたのか、

それとも苦しかったのか・・・。

 

その後、長女は一時期は発達が遅れていたこともあって、

ボイタ法という訓練を少しやっていたことがある。

それが生後3年程まで。

 

3歳前後にもしかするとこのまま養護学校へ行くのかと思っていた時、

通っていた病院の看護師さんが「養護学校に行くほどの障害がないので、

療育もできるような場所があればそこへ行った方がいいです。」という

アドバイスに従って探したところ、

知育よりも身体感覚を大事にするプレ幼稚園と幼稚園の出会いがあって、

今に至るのだった。

 

小学1,2年の担任は今でも毛嫌いしているほど相性が合わなかったが、

その後から長女の先生運(?)は上がっていき、よい先生に恵まれて

本当によかった。

 

予想外の出産と子育てになったなあ、と思う一方で、

世間一般の情報が役に立たないので、自分で情報を探して

よその雑音をすぐに入れないという、私の子育て法が長女によって

確立したな、と思える。

あと、一番よかったのが「待つ」という姿勢ができたこと。

子育ては忍耐が第一だと思うので、結果的にはよかったのかも・・・しれない。

 

が。

やはり、子どもは何事もなく生まれてきてくれるに越したことはない。

 

(その後、何事もなく生まれてきた二女が小児がんになるとは

 夢にも思わなかったけれど)